葛飾区史

第5章 葛飾区の年中行事


葛飾区の年中行事

 「年中行事」とは毎年同じ日にちに繰り返して行われる行事である。正月や盆などは年中行事の代表的なものとして意識され、それぞれの家庭では改まった気分で家族がそろってその日を迎えることが多い。かつて農家では、豊作を祈願する行事や家の安全を願う行事、さらに農作業の節目などに心身を休めるための行事が行われていた。これらの行事の多くは、盆行事に見られるような先祖祭りなど神仏を祀りもてなすことを内容としており、その日神仏に供え、人々が食べるものなども同じものを毎年繰り返して調理している。
 以下葛飾区の旧家で昭和20年代まで行われていた年中行事を紹介する。

1 正月の準備
(1)正月の準備
 正月を迎えるための餅つきや家の清掃、買い物などは正月にやってくると考えられていた先祖の霊を迎えるための準備であり、それ自体がひとつの行事として考えられていた。正月を迎えるための準備は家族全体がとりかかかる仕事であり、ときには親戚が寄り合って進めていくものもあった。
 ① 煤掃き  
 暮れの大掃除は「煤掃き」と呼ばれる。かつては囲炉裏が家の中に設けられ、屋内で火を焚いて煮炊きするため、煙が家の屋根など付着することが多く1年に1度、煤を掃除する必要があったといわれている。煤掃きの日にちは家々によってまちまちではあるが、12月25日を過ぎると始められる。
 煤掃きの日は家の主人が笹竹を束ねて天井を払い、ほこりや煤を払う。この時に使った笹竹は後々までとっておくと火ふせのまじないになるとされていた。
  煤掃きの日には神棚の神具や仏壇の仏具をすべて出して掃除をし、しめ飾りも新しいものにかえる。
大正時代は、煤掃きなどの大掃除をきちんと済ませることを役場が奨励していて、煤掃きを済ませたかどうか巡査が回って来て確認することがあった。
 煤掃きの夜は「おこと汁」と呼ばれる、ごぼう、里芋、ニンジンなどをたくさん入れた醤油味の汁をこしらえて掃除の済んだ神棚や仏壇に供え、家族でも食べた。

暮れの煤払い
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 ② 餅つき  
 正月に家に祀られている神仏に供える供え餅や家族が食べる切り餅などを搗く餅つきは正月を迎えるための行事のなかでも大規模なものでときには親戚や近所の家々が集い、よりあって行った。
 大きな農家ではもち米5俵(300キロ)も搗くこともあったので餅つきの日は夜が明ける前からかまどに火を起こし、湯を沸かしてもち米をふかす準備をした。大正時代までは「ひといろ餅を搗くものではない」といって米の餅だけを搗くことはせずに、粟餅などをひと臼でも混ぜて搗くものだとされた。こうした習慣も昭和に入ると薄れてしまった。
 餅つきは12月25日過ぎに行われるが29日を「苦日」、31日を「一夜餅」といってこの日は餅つきをしなかった。最初に搗いた餅は神棚に上げるおすわり餅とし、一家の主人が一番大きな餅としてまとめて、水引を付けて飾りつけた。このほか仏壇、かまど、井戸、蔵などにおすわり餅を作る。このうち収穫した米や農機具などをしまう蔵に供えるおすわり餅は落ち葉の清掃などに使う箕に入れて「ます」と呼ばれる蔵の米をしまう部分に向けてお供えした。
 餅つきが終わると臼と杵はきれいに洗い、臼の上に粉ひきにつかう石臼を置き、供え餅を供え、杵をぶっちがえにして飾る。こうした飾りは年が明けて1月11日に「蔵開き」と呼ばれる行事が行われるまで置いておく。

暮れの餅つきが終わると餅つきに使った臼はきれいに洗い、石臼とともに重ねて伏せ、餅を供える。翌年1月11日の蔵開きまでこのようにしておく
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 ③ 正月に餅を搗かない家  
 このように餅つきは正月を迎えるために行われる大切な準備として各家庭で行われていたが、葛飾区の旧家の中には昔から「正月に餅をついてはいけない」とか「正月に餅を食べない」というきまりを伝えている家があった。
水元小合町のあるイッケ(本家分家のまとまり)では、むかし暮の餅つきの時、餅つきのこねどり
をしている女房を一緒についてしまったことがあり、それ以来、正月に餅つきをすると餅が赤くなってしまうので餅つきをしないという。
  小合新町でも似たような言い伝えを伝えている家がある。正月の雑煮には餅を入れるが、神棚に上げる大きなお供えは作らず、里芋と煮干しだけをお供えする。
 このほかの神仏には小さなお供え餅を作る。葦で小さな台を作り、半紙を置いたうえにひし形ののし餅を置いてお供えする。

④ 門松  
 門松は一般に正月にやってくる先祖の霊が目印とする依代と考えられており、地方によっては一家の主人が決められた場所から伐採するという習わしがあるところも多い。また樹種も松に限らず檜などの常緑樹が用いられることもあるが、葛飾区では古くからもよりの町で行われる年の市や街角の露店で正月飾りに用いられる松を用いて門松にした。
水元小合町の旧家では門松は家の門口に外庭の中心部に一対飾り、そのほか母屋、蔵、井戸、便所
 などの入り口に一対ずつ置く習わしを伝える家がある。
 門松の頭には正月三が日、雑煮をひと箸供える。三が日が終わると門松は抜かれ、松の頭の部分だけを摘み取って抜いた穴に差し込んでおく。1月7日にはそこに七草粥を供える。

庭の中に門松を立てる
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玄関前にも門松を立てる
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1月7日には門松は下げられ、上部だけを切り取り、元の穴に差し込んでおく。そこに七草粥を供える。
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 ⑤ 正月の買い物  
 正月に神棚などに飾り付けるしめ飾りや門松、正月のごちそうなどを買うためには、ふだん買い物をする場所や店ではなく近隣の町場に出向いて買い物をすることが多く、葛飾区内では松戸や千住に出かけることが多かった。
金町や水元の人たちは暮れに松戸で行われる年の市に出かけて買い物をした。かつては正月に下着
や下駄などをすべて新調する習慣があり、こうした機会に買い物をした。

(2)大晦日
 大晦日には一年の穢れを祓うための行事があって各家で行われ、「ミソカッパライ」などといわれて
いた。暮れになると神社の総代や世話役から神棚に飾る神札とともに小さな幣束が配られる。大晦日の夕食が終わるとこの小さな幣束を一家の主人が手に持ち、家族の頭の上を「祓い給え、清め給え」といいながら祓って回る。事情があって正月に家に帰れない家族は着物を用意してその上を祓う。すべての家族の祓いが終わったあとは幣束を家の近所の辻(三叉路)にさしておく。
 ミソカッパライが終わると、母屋の入り口の扉に盗賊除けとして知られている埼玉県三峯神社のお札を一枚貼り付けておく。また、大晦日に食べる年越しそばは、店などから買い求めたそばを茹で、簡単に済ませる家が多かった。

大晦日に行われるミソカッパライ。一家の主人が家族の身を清める。
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大晦日のトマブリ。埼玉県秩父市の三峯神社のお札を入口の扉に貼る
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2 正月行事
(1)初詣
 正月は各家庭の行事であるとともに集落や学校の祭日で太平洋戦争以前は各小学校では1月1日元旦祭と呼ばれる式典が行われた。校長から訓辞があり、「君が代」を斉唱し、紅白の饅頭をもらった。また、初詣はそれぞれの集落の氏神に出かけるのが常で、元日の朝にそれぞれの家の主人が代表して参拝に行った。
 下小松では初詣の時、ハッチョウジメといい、戸主が自分で作ったしめ縄を持って生き、天祖神社の鳥居にしばりつけていた。皆少し高い位置につけようと、夜12時を過ぎると、競って神社へ行った。最も高い場所に掛けると「一番じめ」といい自慢しあった。
 川端でもしめ縄の一種であるハッチョウジメを各家庭でつくり、それをもって神社へ参拝した。それぞれが手をたずさえていき、鳥居の柱にしばりつける。そのあと拝殿におまいりして帰った。


(2)正月の煮炊き
 正月三が日の煮炊きは男がするものだと言い、物堅い家では雑煮の調理などを一家の主人が行っていたが、ふつうは形だけで、神棚へのお供えだけを男がするという家が多かった。
 正月に初めてかまどや囲炉裏で煮炊きをするときは、大豆やなすの茎を乾燥させたものを焚きつけとして使うがそのとき赤々と火を燃やし「借金ナスがら、よいこと聞くがら、もうよしよし」と唱えごとをした。
 ① 初水汲み 
 元日の朝には、初水汲みといい、一家の主人が井戸から水をくみ上げ、神棚にそなえ、あまった水で雑煮を作った。水を汲む時に井戸に「ほんのお年玉」といってみかんを供え、柏手をうってくる。
 ② 雑煮   
 雑煮は三が日の朝、かつおぶしで出汁をとったすまし汁で、小松菜、里芋を入れる。これに餅を入れるが、「食い下げをしてはいけない」といって餅の数を前日よりも減らすものではないといった。
 ③ 神の膳  
 雑煮とともに大根なますを作る。大根、にんじんを刻んだものに甘酢を掛ける。このほかこんにゃく、ごぼう、蓮根、にんじんの煮しめを作る。こうしたごちそうを神棚に供えるときは経木で作った丸い小さなお供え用の容器を用いる。これを「神の膳」とか「めがね」と呼んでいる。暮れになると行商人が売りに来たが、松戸の春雨橋のところの神具商でも販売しているので、暮れに買い物に行ったときに買っておく。

正月の間神棚などにお供え物を入れる「神の膳」と呼ばれる容器。
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(3)仕事初め
 1月2日は農家の仕事始めといって、畑に肥しをまいたり、畑の一角をうなう真似をする。また、1月2日は青果市場の初売りがあるので、それぞれの農家では元旦の夕方に初荷をまとめた。特にねぎの初荷は「オオタバ」と呼ばれる飾り付けをして賑やかに出荷した。
 初荷は昭和20年代には1月4日になった。飾り付けをした野菜を出荷する習わしは昭和30年代まで続いた。

(4)トロロを食べる碑
 1月4日はトロロを食べる習わしがあって午前中にトロロ飯を作って食べた。神棚にトロロをあげたのち、家の周りにまく家もあった。この日にトロロを食べると中気にならないともいった。この行事を1月6日に行う家もあった。

(5)七草粥
 1月6日の夜、七草粥の準備をする。神棚の下にシャモジなどの台所用具を入れた箕を置き、「ナナクサ、ナズナ。トウドノトリガ、ワタラヌサキニ、ストトガトンヨ」と言いながら、小松菜を刻む。翌朝、七草を入れたお粥を作る。この日に門松をぬき、先の部分を折って穴に差し込み、そこに七草粥を供える。この七草には砂糖をたっぷりと掛けて食べるという家がある。
 この日までは小松菜を食べてはいけないという家がある。また、七草をつけた水に爪をひたしてから、その年初めて爪を切るものだと言われた。また、七草が済むまでは人にものをやってはいう家もある。

七草粥の準備
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(6)蔵開き
 正月のお供え餅は1月10日に崩し、その夜お汁粉にして食べる。また、翌日雑煮を作ってそこに入れるという家もある。11日には蔵開きといって、朝、蔵の扉を開けて蔵のマス(米びつ)に向けて雑煮、尾頭付きの魚、ご飯を供える。

(7)小正月
 1月14日から15日にかけての行事を小正月と呼んでいる。各家で行う行事が主であるが水元小合町では神社でお囃子をあげるところもあった。
 ① まゆだま  
 まゆだま、もしくはメダマといって上新粉で丸い団子を作り柳の枝に挿し、きれいに飾り付けたものを作り、神棚に飾り付ける。家によっては大黒柱に縛り付けたり、お墓、近所の神社にも供えた家もある。水元にはまゆだまを餅で作る家もあって、14日に餅つきをした。これを若餅と呼んでいた。

小正月に豊作を祈願するメダマダンゴ。柳の木にダンゴをさして神棚に供える
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 ② やなぎばな  
 柳の一枝を削り、花のようにしたものをこしらえて神棚に飾る。これをやなぎばな、あるいは削りかけと呼んでいた。これは各家でも作るが行商人が売りにきた。水元ではこれをモメンバナともいい、木綿の豊作を祈るためのものでもあると考えていた。
 ③ 小豆粥    
 15日の朝は小豆を米を炊いた小豆粥を作る。この小豆粥は柳の木を20㎝ぐらいに切り、両端を削って粥がからまるようにした柳箸と呼ばれるものを作り、神棚にお供えした。この小豆粥を残しておき、18日に食べると毒虫に刺されないとか目が悪くならないといった。
  多くの家では小豆粥には塩を入れて味付けするが、下小松では小豆粥に塩を入れると、稲作の季節に水田に海水が入り塩害が起きると言ってそれを嫌う家があった。

小正月の小豆粥。左側は神仏に供えるときに添える柳箸。
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(8)その他の正月行事
 ① 初辰の日  
 下千葉では初の辰の日には水鉄砲などで屋根の棟に水をかけ、棟柱に新しく綯った藁縄を一本縄かけておく。これによって火事が起きないとか落雷の被害に遭わないといわれた。
 ② ハツカコガシ  
 1月20日はハツカコガシと呼ばれるものを作った。コガシと呼ばれるものは、ホウロクで大麦を煎り、臼で引いて麦コガシを作る。これを稲の穂先に絡めるようにして神棚に供えた。稲の穂先はミゴと呼ばれる。ミゴにコガシを絡めることは稲の花が咲いたことを示しているという。また、これを家の周りにまくと長虫(蛇)が家に入ってこないという。

1月20日に行われるハツカコガシ。
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3 春から夏の行事
(1)節分
 立春の前日は節分といい、各家ではこの日訪れると伝えられている鬼を祓うために門口に呪物を作ったり、各家で豆まきをする。またこの日をトシコシとも呼ぶ。
 各家の門口にヤッカガシと呼ばれる作り物を作って魔除けとする。ヤッカガシとはメザシの頭を焼きヒイラギとともに大豆の柄に結び付けたものである。メザシの臭気とヤッカガシの棘が魔除けの役割を果たすという。門口に付けるときに、「アズキの虫ころころ、イネの虫もころころ」という唱えごとをし、つばを3回かける。
 また、この日は豆まきをする。各家では大豆を煎って、一升枡に入れて神棚にあげる。それから「福は内 鬼は外」と言いながら豆をまく。また家によって独特の唱えごとをする家があって「福は内 鬼も内」という言葉を唱える家もある。
 この日は鰯の頭を枝豆の枝にさして黒く焼き、柊の枝とともに家のすべての入口にはりつける。ヤツカガシといい、鬼が入ってこないといった。

(2)コトヨウカ(ヨウカゼック)
 2月8日をコトヨウカと呼び、この日は魔物が来る日と考えられており、さまざまな行事が行われる。
 また、12月8日も同じくコトヨウカと呼ばれている。12月8日をコトハジメ、2月8日をコトジマイあるいはコトオサメといってそれぞれ同じような行事が行われる。
 コトヨウカの行事は神奈川県から東京都、埼玉県にかけて類似した伝承・行事が広く伝わっている。また、茨城県西部では笹神様と呼ばれるコトヨウカと類似した行事がある。葛飾区に伝わっているコトヨウカの行事は、これらの地域のなかにあって独特の伝承を伝えている。
 12月8日、2月8日とも、この日は悪魔除けとして棒の先にメカイと呼ばれる目の粗い篭を結び、高く掲げていた。この日やってくる魔物はひとつ目小僧で、目のたくさんあるものを嫌うと考えられていた。また、コトヨウカには天からお金が降ってくるという伝承がある。12月8日には天からお金が降ってくるので、篭を空にむけてかざす。2月8日には逆に籠の口を下にしめる。これは、せっかく入ったお金が出て行かないようにという願いを込めたものだという。
 また、水元小合町ではコトヨウカの日をボタモチハジメといい、前年の11月30日のオカマサマの日にボタモチを作ってから、この日まではボタモチを作ってはいけなかった。この日作ったボタモチは神棚と仏壇に供える。

(3)初午
 立春後初めての午の日を初午といって農家では豊作祈願を、また商店や工場では火事にならないようにと言ってそれぞれでお祀りしている屋敷稲荷のお祭りをする。
 各家々では、稲荷様のお宮に「奉納 稲荷大明神」と書いたのぼり旗をあげ、赤飯、油揚げなどを供える、分家や嫁に行った人が来たこともあったという。水元猿町などでは、イッケ(本家分家)稲荷祭りを行う例もある。
 上平井、上小松、下小松、小菅、渋江、川端、高砂などでは、初午の日に子供たちがみんなで唱えごといいながら家々を回ってお賽銭を集める行事があった。「稲荷こい、万年こい、お初のだんごからおっこちて、赤いちんちんすりむいた。膏薬代おくれ」といいながら家を巡り、お賽銭をもらうと「大尽、大尽、米蔵たてろ」と囃したて、日頃意地の悪い家であったり、お賽銭が少ないと「貧乏貧乏糞蔵たてろ」とけなして歩いた。この日は子どもたちだけで神社やお堂におこもりをして貰ったお賽銭を分けた。
  
(4)三月節供
 三月節供は女の子のお祭りで、初めての女の子が生まれると嫁の実家から雛人形が贈られてくる。雛人形は「古久屋」という千住の呉服屋があってそこから買う家が多かった。この家の雛人形を「千住雛」と呼ぶこともあった。家々では紅白のひし餅や、砂糖をまぶしたあられ、甘酒などを作り雛人形にあげ、子どもたちにふるまった。

(5)彼岸
 春秋の彼岸には墓参りに行き、先祖を偲んですごす。墓参りに行く日には、五目飯や草団子をつくり、近所と交換をしたり土産にした。

お彼岸のときの五目チラシ
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(6)花見
 桜の花を観賞する花見は、日にちは不定だが毎年多くの人たちが楽しみにしている行事であった。区内では金町の葛西神社から柴又にかけての江戸川堤防が古くから大勢の人たちに親しまれた花見の場であった。また中川の堤防にも桜の木があって奥戸や奥戸新町でも花見をする人が多かった。柴又では農家の人たちが花見客に筵を貸してお金を稼いでいた。

(7)花祭り
 4月8日はお釈迦様の誕生日で多くの寺院で釈迦誕生に因んだ法要が行われるが、特に木下川薬師
(浄光寺)のものが良く知られていた。
この日は木下川の人だけでなく広い範囲の人たちが木下川薬師に集い、目薬やこの日行われる植木市
で草花を買い求めて一日楽しんだ。

(8)五月節供
5月5日は男の子の成長を祝う節供で、嫁の実家から内幟、鯉のぼり、五月人形などが贈られてくる。
各家では餅をついて柏餅を作りふるまった。この日は菖蒲を束にして、家の屋根にあげる。夜は菖蒲湯をたてた。菖蒲は魔除けになると言われており、家によっては菖蒲とよもぎを束にしたものを屋根にあげた。

(9)浅間祭り
 7月1日は富士山の山開きで、かつて多くの集落にあった富士講の人たちはこの日にあわせて富士山登拝を行った。昭和になってからは電車を使った参拝が主であったが、出発の前には水垢離を取り、身を清めて出かけて行った。
区内では水元飯塚の冨士神社の祭りが盛大に行われ、とくに宵宮に催される演芸会は飯塚の人たちだ
けでなく近隣の多くの人たちが集い楽しんだ。
集落の取り決めで今年は豊作なのでとくに盛大に祭りをやろうということになると、日暮里の松本源
之助という江戸里神楽の芸人に出演をかけあいにいった。このほか水元飯塚の青年団による演芸会や万作芝居などが行われ昼過ぎから夜遅くまでにぎわった。

4 盆を巡る行事
 お盆は仏教色の強い行事であるが、本来は先祖祭りであり宗教宗派を越えた伝承が区内各家の盆行事にも垣間見られる。また、七夕行事は現在、星祭りとして知られているが、盆と密接な関係性を持っている。一説に盆を迎えるための禊の行事が七夕であるともいわれ、水にかかわる伝承が付随していることが特色である。
 葛飾区内では7月に盆行事を行うところと8月に行うところがあるが、概して時代が遡ると8月の盆が多く、7月にお盆を迎えることを「東京の盆」などというように新しい習慣としてとらえている。

お盆の道具を作るための材料であるマコモを干す。
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(1)地獄の釜の蓋が開く日
 1日を「地獄の釜の蓋があく日」といい、水元小合ではこの日念仏講の人たちが集まって「カマプタ念仏」を行った。
 新盆の家ではこの日の早朝、まだ太陽の光が差し込む前に高灯籠といって、庭先に丸太を立て、杉の葉をつけて灯籠をつるした。そして、仏様が迷わないようにと、送り盆まで毎日灯籠に火を灯した。親戚の人たちは新盆見舞いとして、白い提灯やそうめんなどを持って行く。この贈答品のことを「ボンブチ」といっている。

新盆の高燈籠。新しく先祖となった人の霊魂を迎えるための目印
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(2)七夕
 盆行事を8月に行うところは、七夕も同様に8月に行う。逆に7月に盆を行うところでは七夕も7月に行う。この日はマコモで牛と馬を作る。刈り取ってきたマコモは干しておき、一対の馬と牛を作り、笹竹を2本立てた間に縄をはり、牛と馬のほか、ホオズキ、稲穂などを吊るす。その前には油、塩、お神酒を供え、小麦まんじゅうや野菜の煮物、うどんなどを供える。七夕が終わると、子ども達が馬を引っ張って歩き、最後に川に流した。
 また、早朝里芋や蓮の葉にたまった露を集め、それで墨をすって、「天の川」と書くと字が上手になるといわれた。また、「午前10時前に髪を洗うときれいになる」ともいった。

七夕祭りの飾りつけ。マコモで作った牛と午に米、酒、油と夏野菜を供える。
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(3)墓掃除・ガラガラ膳
 11日頃、墓掃除をし、灯籠を立て、ガラガラ膳と花を立てる筒を置いてくる。ガラガラ膳はノダナ、膳とも呼ばれており、十文字に組んだ竹にマコモを編み込み、竹で足をつけた膳で、25~30cm四方の大きさである。墓から帰る途中の道端にもガラガラ膳を置く。これは無縁仏のためといわれる。
小合上町ではガラガラ膳は墓地や道端へ置き、上に賽の目に切ったナスと水、アンコロ餅を供える。
 金町ではガラガラ膳は仏の数だけ作り、墓掃除の時に立ててくる。ムカエの時は、墓前のガラガラに蓮の葉でくるんだ供物を上げ、アンコロ餅を供える。そして墓前で線香と灯明をつけ、その火を提灯につけて帰る。この日に家の庭や家の前の道に立てたガラガラ膳にも供物を挙げた後、盆棚の灯明に火をつける。家の庭のガラガラ膳は無縁仏のためだという。送りの時は、墓前のガラガラ膳にお茶とダンゴを供える。

マコモで作られたガラガラ膳。仏の腰かけともいう。
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(4)盆棚
  同じころ盆棚を作る。盆棚は仏壇の前に六尺(約180㎝)四方くらいの台を置き、その上にマコモで編んだ茣蓙を置く。この両脇に竹を立て、上にマコモの縄を張り、稲穂、ほおずき、ネコジャラシ、キュウリ、そうめんなどを吊るす。台の上には仏壇の位牌をだし、蓮の葉の上に賽の目に切ったキュウリやナスをのせる。そのほか、野菜や果物などを供える。盆棚の供物は盗んででも用意しろと言われた。また、位牌の数だけオガラを作った箸を用意する。そして、ナスとキュウリにオガラで足をつけて作った牛や馬を置く。かつてはマコモで作った牛や馬だった。盆棚の脇にはムエンサマの棚もしくは膳を置き、供物をのせる。
 盆棚にはこの日ついた餅でアンコロ餅をつくりカワラケにのせて供えた。新盆の家ではこのとき「どうぞおしるしをください」というと、供えたお茶の葉に、翌日歯形がついているといわれる。

お盆の間、先祖の黎をもてなす盆棚
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盆棚にしくマコモの膳を作る
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(5)迎え盆
 提灯を持って、墓に仏を迎えに行く。墓でガラガラ膳の上に蓮の葉を置き、賽の目に切ったキュウリやナスをのせる。また、迎え団子も供える。これはあんこつきの団子である。そして、線香と灯籠(灯明)に灯した火を提灯に移し、家に帰る。途中、道端のガラガラ膳にも供物を置く。また、家の戸口などに麦藁で作った松明に火をつけて迎え日をたく家があった。松明に残った火でお尻を叩くと、男性はできものが治る、女性は安産になるといわれた。迎え火の後、「どうぞオショウロサマ、おぶさってください」と言いながら、人を背負う恰好で戻る家もあった。
 玄関には仏が足を洗えるように、水を入れたたらいを用意しておく。家にあがる時、「さあさあ、おあがんなさい」などと言う。そして、提灯もしくは迎え火で家の棚のろうそくに火を灯し、線香をつける。

ご先祖を迎えるために提灯に火をともす。
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(6)無縁様
  各家では盆棚の脇に小さな膳を作ってそこにも盆の供え物をする。これを「無縁棚」あるいは「餓鬼棚」といって無縁仏を供養するための棚であるといわれている。また、墓に無縁仏が留守で残っているという伝承もあって、14日にはその留守番の仏様をねぎらいに墓参りに行く。このときは仏様の弁当として、賽の目に切ったキュウリを持って行く。また、朝早ければ早いほどよいとされ、競争でお参りに行った。

先祖を祀る盆棚の傍らに無縁仏に差し上げる供物を供える
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(7)高野の施餓鬼
 14日の夕方、仏様が高野の施餓鬼に出掛けるといい、弁当としておにぎりやナスの味噌焼きを盆棚に供え、オガラの箸をそえる。おにぎりの数は家や集落によって多少数が違うが12のおにぎりを作ってオガラの箸をさしておくという家がある。15日に高野の施餓鬼から仏が帰ってくるまで、盆棚の灯明は消しておく。「高野の施餓鬼」とは埼玉県北葛飾郡杉戸町下高野の永福寺の施餓鬼である。この高野の施餓鬼は8月24日に行われるが、この日にお参りすると亡くなった家族にそっくりな人に会えるといわれている。

(8)送り盆
 送り盆は遅い方がいいと言って15日、日が暮れた後に提灯を持って、道端のガラガラ膳があるところまで行き、団子、キュウリ・ナスの牛馬、賽の目に切ったキュウリ、ナスなどを持って墓に行き、置いてくる。送りのときの団子は、あんこはついていない。送り火をたきながら、「これに乗ってお帰り下さい。来年もどうぞおいでください」などと言う。送り火で煙草を吸うと、肺病にならないといった。送った後は、仏様が帰るかどうか迷ってしまうので、後ろを振り向いてはいけないという。
 青戸では、宝持院の住職の夢枕に仏がたち、15日の晩に送られたのでは、高野の施餓鬼から帰ってすぐなので落ち着かない。16日にしてもらいたいと言ったため、宝持院の檀家は16日に送りをしたという。16日にはあの世の門が閉まってしまうので朝早くに送った。
 盆棚に供えた、ほおづきは取っておき、魚の骨などがのどに刺さった時に、その実でこすると良くとれると言われた。
 
5 秋から冬の行事
(1) 月見
旧暦8月15日を十五夜といい、月見を始めとするさまざまな行事が行われた。
この日は各家で月見の供え物を縁側などに置く。すすきをかざり、一升枡にダンゴを入れ、その他
芋、粟等季節の作物を供えた。
 十五夜の晩は集落の子どもたちが数人組んで、棒の先に釘を付けてお供えや団子を盗みに歩いた。各家でもわかっていて、あらかじめ障子を開けておいて盗みやすいようにして置いた。供え物が盗まれると縁起が良いとされ、子どもたちは集めた団子や供物を分け合った。
 また、片月見はいけないといい、十五夜をしたら必ずおこなうものだといわれた。団子やボタモチ
を十三個供える。

(2)オカマサマ(荒神様)
オカマサマは荒神様のことで10月30日に出雲の国に出かけ、11月30日に帰ってくると言う。
 お立ちの日で、「オカマの団子は数ばかり」といい、一升枡に山盛りに入れたあんこをつけた団子と松を一枝荒神に供える。オカマサマは、出雲へ神様のところへ人間の男女の縁組を決める会議があってそこへ行くという。11月30日は、ムカエオカマ、オカエリなどといい、団子あるいは、ごはんとなますを供える。尾頭つきの魚や松を一枝供える家もある。荒神様に供えた物は子どもは食べてはいけない。食べると国巡りをするからだという。また、女性が食べると髪が生えるという伝承がある。

(3)エビス講
 10月20日、11月20日、正月20日などの日のいずれかに行う。
 この日はエビスダイコクの像を台におろし、尾頭つきの魚やご飯、野菜の煮物、一升枡に山盛りにいれたお金などを供える。青戸や水元では、生きた鮒を供え、翌日、川に流している。エビス様はエビス講の日に上にあげておくと働かないといった。
 また、家ごとの行事ではなく、ムラの小集団で行っていたところもあった。例えば、上小松では、11月20日に順番に世話人になり、毎月集金をして、酒代にし、世話人の家が宿になる。当日の朝、世話人は自分の家のエビスダイコクに鯛や煮しめなどを供える、14時頃、皆が集まり拝む、その後、夕食を食べた。エビスダイコクがいない家では、稲荷様に供物をあげ、拝んだ。

エビス講の供え物。鯛とともに鉢に入れた生きた鮒を恵比寿様にお供えする。
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(4)ふいごまつり
 11月8日はふいごまつりといい、鍛冶屋、ボルトナット工場、石屋、鋳物工場などを火を用いて仕事をする家が、それぞれ使用しているふいごや、火炉などに〆縄を張り、蜜柑を供えてお祭りをした。また鍛冶屋では鎌や鍵のミニチュアを作り、「水」の字を象ったものを作り神棚にあげた。
 
(5)ハナヨゴレダンゴ
 12月1日にハナヨゴレダンゴと呼ばれるお汁粉を食べた。この日は前日、荒神様に供えた団子の残りを汁粉にして食べた。ハナヨゴレダンゴを食べた後、田や堀に落ちると便所に閉じ込められた。ろうそく(もしくは線香)を持たされ、火が消えるまで出られなかった。
 堀切ではハナヨゴレダンゴには餅を入れた。また、小谷野ではお汁粉ではなく、大きな鍋に野菜でもなんでも入れて、油揚げ、茹でた小豆などを入れたものを食べる。これをオトコジルといった。田や堀に落ちたときに便所に閉じ込められることはほかの事例と同様である。

(6)冬至
中気にならないように、かぼちゃを食べ、ゆず湯に入った。このゆずは糠漬けにし、正月に食べる。
 また、朝一番にくんだ水を瓶に入れ、神棚にあげ、四方にまいた。まいて残った水を家族みんなで少しずつ飲む。これは厄除け、火伏のためだという。