葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第3節 都市近郊の農村

■人々の祈願と信仰 :写し霊場巡り

 四国八十八ヶ所巡りや西国三十三所巡りなど、複数の寺社を参拝して功徳を得ようという信仰が江戸時代に流行した。こうした規模の大きな霊場巡りの写しを身近な地域の寺社に作り、巡拝する活動が江戸時代以降葛飾区域を含む地域で盛んになった。
 写し霊場ではあるが、徒歩で巡礼するには3日から4日かかるものがほとんどで、小さな旅を伴った巡拝であった。
 葛飾区内に霊場がある写し霊場のうち、弘法大師に由来しているものには、東葛西領八十八箇所・荒川邊八十八箇所・新四国四箇領八十八箇所・荒綾八十八箇所・南葛新四国八十八箇所(弘山講)・南葛八十八箇所(大心講)・隅田川二十一箇所・水元水郷二十一箇所などがある。
 このうち東葛西領八十八箇所は天明年間(1781〜1789)に活動が始められた注釈1-1と推定されており、文久2(1862)年に遊々山人が著した『東葛西領新八十八箇所詣ひとり案内』に巡拝した村名と順路が記されている。
 荒川邊八十八箇所は文化年間(1804〜1818)に始まった。この「荒川」とは現在の隅田川のことである。
 新四国四箇領八十八箇所は天保12(1841)年に始まった。中川両岸沿いにある江戸時代の葛西領、二郷半領、淵江領、八条領の4ヶ領にわたる。
 荒綾八十八箇所は明治44(1911)年、荒川二十一箇所と綾瀬二十一箇所をもとにして始まった。
 南葛新四国八十八箇所は、明治43(1910)年、弘山講によって始められた。
 南葛八十八箇所は、大正12(1923)年、現在の奥戸、善紹寺の住職により始められた「いろは大師」をもとに大正14(1925)年、八十八ヶ所の霊場が整備された。
 また、隅田川二十一箇所霊場は明治38(1905)年頃始まったとされ、水元水郷二十一箇所は昭和8(1933)年頃に整備されたと思われる。また、足立区大谷田の常善院をふりだしとする四ヶ領二十一箇所霊場があり、明治30年以降大正12年までの間に活動が始められたと推定される。この霊場は瓦でできた大師像を祀ることが特色であるが、数ヶ所の霊場の場所は不明である注釈1-2
 葛飾区内では東金町の観蔵寺、東水元の長伝寺、水元の遍照院などが霊場となっている。
 なお、これとは別に大正記念大師講(大正4〔1915〕年)、大正大師講(大正11〔1922〕年)と呼ばれる送り大師が存在した。送り大師とは、厨子に入った弘法大師の像を大八車に載せたり背負ったりして、村から村へ順に送っておくことをいう。四箇領八十八箇所や南葛八十八箇所でも送り大師を行っていたという。
 同じように広範囲の寺院を巡り、信仰の対象とするものに観音霊場巡りがある。葛飾区に関連するものには、元禄年間(1688〜1704)に始められた葛西三十三箇所、元禄10(1697)年に始められた武蔵國三十三箇所などがある。このうち武蔵國三十三箇所は現在も続けられていて、十二年に一度の午年に開帳されている。

南葛八十八箇所 開設十周年記念塔 妙厳寺(奥戸)
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南葛八十八箇所一番札所 善紹寺(奥戸)
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南葛八十八箇所開講60周年記念の奉納旗
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注釈1-1:霊場の活動が始められたことを「開創」という。
注釈1-2:小川政秋『葛飾區内の寫し霊場 札所案内』(平成28〔2016〕年 私家本)。