子ども葛飾区史

第3章 地域の歴史


かつてあった地名の由来

小合
 1981(昭和56)年までは、「水元小合町」・「水元小合上町」・「水元小合新町」という「小合」がつく地名がありました。
 現在の水元・東水元・南水元・水元公園・東金町の一部です。
 約620年前の室町時代の資料に「小鮎」という地名があり、これが変化して約460年前の資料では「小合」となっています。
 なぜ、「小鮎」という地名になったのかは、はっきりとわかっていませんが、鮎の産地であったことからつけられたとする説もあります。

猿ヶ俣
 1981(昭和56)年までは「水元猿町」という「猿」がつく地名がありました。現在の水元・東水元・西水元・水元公園の一部にあたります。
 「猿俣」は、約770年前の鎌倉時代の文書に書かれている古い地名で、その後、江戸時代までに「猿ヶ俣」に変化しました。
 なぜ「猿俣」という地名になったか詳しくはわかっていませんが、「俣」は川が合流したり分かれたりする場所のことで、川からつけられたとする説があります。
 地元では、「さる」は「去る」になり、縁起が悪いとして、「やえんまた」ともよんでいました。

飯塚
 約620年前の室町時代の資料にも出てくる古い地名で、1981(昭和56)年までは、「水元飯塚町」という地名がありました。
 現在の南水元・水元・西水元・新宿の一部にあたります。
 江戸時代の資料には、「飯塚」という塚が地名になったと書かれています。

小松
 1968(昭和43)年まで、「上小松町」・「下小松町」という「小松」がつく地名がありました。現在の新小岩・東新小岩・西新小岩・奥戸の一部です。
 「小松」という地名は、約620年前の室町時代の資料にも出てくる古い地名です。
 なぜ、このような地名になったのかは、はっきりとわかっていません。

曲金
 1932(昭和7)年まで、現在の高砂の地名でした。約620年前の室町時代の資料にも出てくる古い地名です。
 なぜ、このような地名になったのかは、はっきりとわかっていません。

上平井
 1966(昭和41)年までは、「平井中町」という地名がありました。現在の新小岩・西新小岩の一部にあたります。また、1968(昭和43)年までは「上平井町」という地名がありました。現在の東新小岩・西新小岩・奥戸の一部にあたります。
 もともとは、「上平江」という地名で、約620年前の室町時代の資料に出てくる古い地名です。
 「平江」という名前は、この辺りが、入江のような地形だったことからつけられたといわれています。その後、約460年前の戦国時代に「上平井」に変わりました。

砂原
 1965(昭和40)年まで、現在の西亀有1丁目~4丁目は、「砂原町」という地名でした。
 「砂原」という地名が最初に登場するのは、江戸時代の資料です。
 なぜ「砂原」という地名になったか詳しくはわかっていませんが、この辺り一帯が砂地の原であったことからつけられたとする説があります。

千葉
 昭和40年代はじめ頃まで「上千葉町」・「下千葉町」という地名がありました。現在の東堀切と堀切・お花茶屋・小菅・西亀有の一部です。
 約620年前の室町時代の資料に「木庭袋」という地名があり、これが「千葉袋」になりました。
 「袋」は川が袋状に蛇行している地形のことをいい、かつて辺りが古隅田川に面していたことも関係していると考えられています。
 また、千葉氏がここに城を築き、「木庭」を「千葉」に改めたという言い伝えもあります。

小谷野
 1964(昭和39)年まで、現在の堀切の一部は、「小谷野町」という地名でした。
「小谷野」という地名は、江戸時代の資料に出てきます。
 なぜ、このような地名になったのかは、はっきりとわかっていません。
 なお、この地域からは、室町時代の板碑(亡くなった人の死後の幸福を願って石の板に文字を刻んだもの)が見つかっていて、約600年前の室町時代には人が暮らしていたと考えられています。

若宮
 1972(昭和47)年まで、「本田若宮町」という地名がありました。現在の四つ木・堀切の一部です。
 「若宮」という地名は、鎌倉幕府の初代将軍となる武将、源頼朝が戦の勝利を祈った若宮八幡宮がまつられていたことからつけられたといわれています。

渋江
 620年前の室町時代の資料にも出てくる古い地名で、1965(昭和40)年までは、「本田渋江町」という地名がありました。現在の東立石・四つ木・東四つ木の一部にあたります。
 渋江の「江」は、この辺りに東京湾の海水が入りこみ、入江のようになっていたことからつけられました。「渋」がなぜつけられたかはわかっていません。
 なお、地元では「しぼえ」ともよんでいました。

宝木塚
 江戸時代のはじめ頃からある地名で、1965(昭和40)年までは、「本田宝木塚町」という地名がありました。現在の宝町・四つ木・お花茶屋の一部にあたります。
 なぜこのような地名になったのかはっきりとはわかっていませんが、昔、西光寺(宝町二丁目)に宝木塚と言う塚があったためという説があります。この塚は、親鸞という有名な僧が西光寺の松に衣服をかけてこれを法喜塚と名付け、やがてそれが宝木塚となったと言われています。また、この辺り一帯を治めていた「葛西“伯耆”守(ほうきのかみ)清親」と名乗る武士が居て、西光寺にこの武士の墓があったためという説もあります。

篠原
 1966(昭和41)年まで、現在の四つ木・立石の一部は、「本田篠原町」・「西篠原町」という地名でした。
 「篠原」という地名は、江戸時代の資料に出てきます。
 この付近一帯に篠竹(細い竹笹)がたくさん生えていたことから「篠原」という地名になったといわれています。

川端
 江戸時代に開こんされた地域で、初めは立石村に属していましたが、その後独立し、「川端村」となりました。
 1965(昭和40)年まで「本田川端町」という地名がありました。現在の東四つ木・東立石の一部にあたります。
 地名は、中川沿いに位置していることから「川のほとり」という意味の川端とつけられたと考えられています。

原・中原
 江戸時代のはじめに開こんされた地域で、初めは立石村に属していましたが、その後独立し、「原村」・「中原村」となりました。
 1965(昭和40)年まで「本田原町」という地名がありました。現在の東立石の一部にあたります。また、1967(昭和42)年まで「本田中原町」という地名がありました。現在の立石・青戸・四つ木の一部にあたります。
 いずれも、昔、この辺りに広い野原があったことからつけられたといわれています。

梅田
 江戸時代のはじめに開こんされた地域で、初めは立石村に属していましたが、その後独立し、「梅田村」となりました。
 1966(昭和41)年まで「本田梅田町」という地名がありました。現在の立石の一部にあたります。
 なぜこのような地名になったのかはっきりとはわかっていません。

淡之須
 江戸時代のはじめに開こんされた村で、初めは立石村に属していましたが、その後独立し、「淡之須村」となりました。
 1966(昭和41)年まで「西淡之須町」という地名が、1967(昭和42)年まで「本田淡之須町」という地名がありました。現在の四つ木・立石の一部にあたります。
 なぜこのような地名になったのかはっきりとはわかっていません。

木根川
 1965(昭和40)年まで、現在の東四つ木1丁目~3丁目は、「本田木根川町」という地名でした。
 約620年前の室町時代の資料には、「上木毛川」という地名があり、その後、「上木下川」になり、1932(昭和7)年の葛飾区誕生の際に「木根川」になりました。
 なぜ、このような地名になったのかは、はっきりとわかっていません。