葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第4節 地域の移り変わり

■ :南綾瀬町 (小菅町・上千葉町・下千葉町・堀切町・小谷野町・柳原町)

 小菅の集落は、水戸街道に沿った場所に家が多く、商店や演芸場などもある古くから繁栄した町であった。江戸時代の小菅御殿から水戸街道に通じる道路には松の並木があって「松原通り」と呼ばれていた。
 昭和6(1931)年に中川と綾瀬川の間に花畑運河が開かれると、埼玉県南東部の農村と東京の間を行き来する川船の往来が多くなった。これらの船は東京都心の家庭から運ばれる屎尿を肥料として利用するために運ぶ船や中川の砂を東京都心部に運ぶ船であった。
 小谷野町は明治初期には26軒の小さな集落であった。鎮守の稲荷神社では9月に祭りが行われたがその他に桃祭りという祭りが7月19、20日に行われていた。雄と雌の獅子頭を被った若者が、集落の中を巡り、各家の勝手口から座敷へ入り、家の中を通り抜けて厄よけを祈願した。桃祭りという名前の由来は、祭りの見物客に厄よけのために桃を配ったことによる。
 堀切町は菖蒲園で知られているが、昭和初期まで、花栽培をする農家が多い土地でもあった。畑で矢車草やキンセンカなどを栽培し売りに行く。1日と15日は特に東京都心部の町家で仏壇に花を飾る人が多かったので、行商に出ることが多かった。
 昭和20年代後半になると、堀切町や小谷野町は、ブリキ玩具工場やゴム工場などが多くなった。これらの工場は内職の人たちを多く雇用していた。
 特色のある内職として戦後増加したものが、葬儀の際に近親者から送られる花輪に付けられている造花を仕上げる作業である。戦前にはあまり見受けられなかった仕事であるが、本所や深川などの業者が戦災を受けて堀切に集まってきたのだという。葬儀の花輪の造花は、堀切にあった数軒の問屋が内職をする人から製品を集めて全国に出荷した。
 戦後、人口の増加を背景として、堀切菖蒲園駅の周辺はオリエンタル劇場、堀切映画劇場などの映画館がある葛飾区内屈指の繁華街になった。
 下千葉町や上千葉町は昭和20年代になっても農業をする家が多かったが、戦後は次第に水田が少なくなった。都心の市場に野菜を出荷することは昭和40年代まで盛んに行われていて、ツマモノ野菜や小カブなどを生産していた。また、柳原町は、荒川放水路の開削によって葛飾区域から分離し、昭和7(1932)年の葛飾区成立時には区内に組み入れられていたが、協議の上、昭和9(1934)年に足立区に編入された。

浄慶庵

浄慶庵は下千葉の郷士相川重右衛門の創立と伝えられている。寛文4(1664)年銘の湯殿山供養碑や明暦2(1656)年銘の板碑型庚申塔などがある。
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松原通り
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水戸街道沿いの小菅の商店
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水戸橋付近
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戦前の堀切の菖蒲園
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上千葉の香取神社の祭り(昭和30年代)
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