葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第4節 地域の移り変わり

■ :亀青村(亀有町・青戸町・砂原町)

 上の写真には工事中の道路が写っている。道の両側には家がまばらに建っているだけである。合間には水田のようなものが見られる。
 この道はやがて亀有銀座商店街となるのだが、当時の亀有の中心地は江戸時代の水戸街道に沿った所にあった。亀有警察署をはじめ、駕篭屋、桶屋や傘屋などいくつかの店があり、三遊館と呼ばれる演芸場もあった。
 また昭和初期の亀有町には既に葬儀社があって、新しく移住してきた人たちの葬儀の需要に応えていた。富裕な家では豪華な棺をあつらえ、昭和初期に流行した放鳥などの儀礼を葬儀社に頼む家があった。葛飾区内の農家では、昭和初期にはまだ近隣の人たちが互助して自宅で葬儀を行うことが多かった。
 旧水戸街道の南側は水田が多かった。前津、砂場や東堤と呼ばれる小字には、昭和20年代まで農家が多かった。
 亀有の駅周辺は、昭和初期から太平洋戦争期にかけて急速に都市化が進んだ。昭和12(1937)年に日立製作所亀有工場が設置され、従業員達が亀有駅を利用するようになり、駅の北側も活況を呈するようになった。現在の亀有公園では相撲やサーカスの興行などが行われた。また、小さな飲食店が急激に増加していった。
 亀有に隣接する砂原町は、明治初期には24軒ほどの農家がある農村であったが、日立の工場ができるとその工員の社宅などが建てられた。
 戦後は東京東部の繁華街である浅草や上野に近いことから、若手芸能人が住むことも多くなり、「芸能荘」と呼ばれるアパートがあった。
 亀有の香取神社の祭礼は現在では大変活気があり、葛飾区内でも屈指のにぎわいを見せている。
 青戸町は昭和20年代まで農家が多かった。しめ飾り作りを農業の副業とする家が多く、特に輪飾りやりんぼうといった小さいしめ飾りを得意としていた。また、花を栽培する農家が数軒あった。その他、今戸焼の材料になる良質な粘土を産出する所として知られ、数軒の製造業者があった。
 昭和12(1937)年には東洋インキ製造青戸工場が開設され、社宅などもでき、次第にサラリーマンの家庭も増加してきた。昭和31(1956)年には日本住宅公団青戸団地が建設された。
 青戸町では大正時代まで「せんぞまんぞ」と呼ばれる子どもの行事が伝わっていた。1月15日に子どもたちが小さな船を担ぎ、集落のなかを巡ってまわり「せんぞまんぞ」と、唱えごとをいいながら歩いて賽銭を集めるものである。
 青戸の延命寺は「疫神様」と呼ばれ、4月15日に行われる大祭は大変なにぎわいであった。青戸町の人たちは、かつては延命寺の大祭に草餅を作り、親戚の家に送り届けて「今日は疫神様のお祭りだから遊びに来てくださいよ」と誘うことが通例で、これを「マチムカエ」と呼んでいた。延命寺の大祭では青戸町に新しく嫁に来た女性たちが嫁入りの支度をして大祭でにぎわう延命寺に参拝するという習わしが昭和20年代まで残っていた。
 また青戸町の観音寺では大般若と呼ばれる行事が行われていた。これは、寺院で大般若経を読み上げた後、これを箱に入れて若者が担ぎ、ムラの中を歩いて厄除けを祈願するもので、一度中断したが復活されて平成の初め頃まで続いていた。

亀有駅から南へ向けて撮影されたもの(昭和5〔1930〕年頃)
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UR青戸第二団地付近(昭和33〔1958〕年)
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青砥神社の祭り(昭和30年代)
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延命寺の植木市(昭和30年代後半、青戸町〔現青戸〕)
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