葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第4節 地域の移り変わり

■ :新宿町(新宿町)

 新宿町は江戸時代、水戸佐倉道の宿場町として繁栄した。その面影は明治時代にも残っていて、藤屋、中川屋、千波田屋などの旅館が残っていた。明治初期には220戸の家数を数える大きな集落であった注釈1
 亀有との間にある中川橋では橋の通行料を町が徴収していた。これが当時の新宿町の有力な収入源であった。明治時代に常磐線の駅が新宿に設置される計画があったときに、町の人たちの反対があり、結局駅は亀有と金町に開設された。そのため繁華街としては後れを取ることになったが、まだ昭和初期には葛飾区内ではもっともにぎやかな町であった。
 毎月4のつく日の夜に縁日が開かれた注釈2。そのときは人々が集まってにぎわい、バナナのたたき売りなどの露天商が出たという。新宿倶楽部という見世物小屋やコトリ喫茶と呼ばれるカフェなどがあった。カフェには女給がいて町の青年達のたまり場であった。
 水戸街道沿いには、昭和初期の葛飾区域では珍しかった精肉店や鍛冶屋などの商店が軒を連ね、遠方から買いに来る人もいた。
 宿場町があった場所は今も旧水戸街道が、鍵のような形に折れ曲がって昔の姿を伝えている。古い建造物はほとんど姿を消したが宿場町らしい面影がある。
 新宿町には旧宿場町の周囲に鷺沼や下河原などの集落があり、野菜を作って東京都心の市場に出荷していた。新宿の農産物として特に知られているのはネギである。新宿のネギは冬ネギで、12月上旬から1月にかけて出荷された。足立区千住のネギ専門の青果問屋でも、新宿のネギは特に有名で高い値段がついた。ネギは3月に種をまき、7月には育った苗を移植して、12月に収穫した。この間、畑をふさいでしまうので収益を上げるには広い畑が必要であった。そのため歌舞伎の名題役者になぞらえた「名題山」と呼ばれるようなネギ作りの名人たちは、みな大きな畑を持っていた。ネギ作りをする農家はネギの生産専門に特化するようになり、周囲からは「ネギ屋」と呼ばれた。こうしたネギ作りの名人たちの一部は、都市化が進み、農地が少なくなった現在も高品質な新宿ネギを伝えている。
 新宿には江戸時代から続く民俗行事が今日もいくつか残っている。成田山新勝寺を信仰する不動講が現在も正月、5月、9月に行われる。また、江戸時代に建立された馬頭観音を祭る馬頭観音講が4月19日に行われている。かつては二股になった木の枝を卒塔婆として納め、家畜の供養をした。
 日枝神社の祭礼は、かつては9月15日に行われていた。現在はその前後の日曜日など人の集まりやすい日を選んで行っている。千貫神輿と呼ばれる大きな神輿があり、大祭で出されることもある。明治時代以前には獅子頭を神輿のように担いで町内を巡ったこともあった。

昭和初期の新宿

レンガ造りの建物が描かれている。飯塚亀雄が自らの記憶をもとに描いたもの。
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昭和初期の縁日の様子

飯塚亀雄画
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新宿藤屋の引き札(広告)

図面中央、新宿の部分に藤屋の建物と名物が書かれている。
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紀元二千六百年記念祭
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注釈1:『東京府志料』による。
注釈2:岩附良雄『回想の記 葛飾に生まれて』による。