葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第4節 地域の移り変わり

■ :水元村(水元猿町・水元飯塚町・水元小合新町・水元小合上町・水元小合町)

 昭和初期の水元は、まだ純然たる農村というべき地域で、工場などはなく、ほとんどが農家ばかりであった。
 水元飯塚町には冨士神社があって、7月1日の祭礼には周辺の地域からも多くの人が押し寄せて、境内で開かれる神楽や芝居などの見物に興じていた。
 水元猿町では、香取神社で獅子頭を神輿のように担ぐ勇壮な祭礼が行われていた。
 水元小合上町の日枝神社や水元小合町大下の天王社の祭礼には草相撲の興行が催され、これも近郷から多くの人たちが集いにぎやかであった。
 中川には橋が掛けられておらず、袋の渡し、佐野の渡し、飯塚の渡しなどに渡し船が行き来をしていた。昭和20年代まではムジナ、イタチなどが民家の周りに出没することも多く、夏は随所で蛍が見られた。竹やぶにはスズメやモズの巣があって子どもたちでも卵を集めることが容易であった。
 水元が変わっていく最初のきっかけは、昭和14(1939)年に現在の水元公園に当たる地域が緑 地帯注釈1として指定されたことであった。この計画は東京郊外の緑を保全して東京市民の憩いの場とすることを目的としたものであった。また、戦時色が強くなる中、近い将来予想される東京への空襲に備えて防空空地とすることも併せて考えられていた。この計画によって水元の東北部の50万坪余りの土地の買収が進んだ。
 しかしこの緑地帯計画は太平洋戦争が激しくなると中断され、買収された土地ではそのまま旧来の地主によって農業が続けられ、終戦を迎えた。その後、昭和21(1946)年に農地改革が実施され、買収された農地は旧地主に払い下げられることとなった。このような経緯があって、戦後しばらくは水元の景観的な変化はほとんどなかった。
 現在の水元公園内にあった畑地は土地の言葉でシタガラといって、非常に土が良く、水元小合町では小カブ、ネギやマクワウリなどが、水元小合上町では山東菜が名品として有名で、神田、築地などの市場で高く評価されていた。
 しかし、昭和31(1956)年に戦前に緑地帯に指定されていた地域は改めて都立公園として整備されることとなり、再び農地の買収が始まった。現在の水元公園内にあった畑地は公園となるため、ここに農地のある人たちは別の場所に畑を求めることとなった。
 この時に、それまで水田だった土地を畑に転換する人が多かったことから、昭和30年代後半になると水元の水田は急速に少なくなった。こうして求めた新しい畑地は概して家から遠い所が多かったため、大きくて運ぶのが大変な山東菜や栽培期間が長いネギなどの栽培はやめて、小さくて栽培期間の短い小松菜を主力作物に切り替える家が多くなった。
 現在の水元公園内にあった畑地を失ったことをきっかけに農業をやめ、駐車場やアパート経営を行う農家も少なくなかった。そのため、昭和40年代には宅地が増加した。
 水元公園は昭和40(1965) 年6月に開園した。水郷の自然を生かした公園は、現在も都民の憩いの場となっている。

大下の榊神輿(昭和29〔1954〕年)
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香取神社の祭礼(昭和31〔1956〕年、水元猿町)

獅子頭を御輿のように担いで巡る。
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茅の輪くぐり神事(葛飾区登録無形民俗文化財)(昭和50年代、水元小合町)

香取神社で6月に行われる。
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大きな屋敷林を持つ農家(昭和20年代、水元猿町)
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巡行する山車(昭和20年代、水元小合町)

牛が山車を引いている。
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水元の大松(昭和31〔1956〕年)

水元小学校付近にあった大きな松。
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注釈1:東京緑地計画に基づく「緑地帯」として紀元二千六百年を記念して指定された。