葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第1節 戦後の葛飾

■自治権の拡充と計画的なまちづくり :広がる区の役割と区長公選制の復活

 特別区は、昭和22(1947)年の「地方自治法」施行により、市と同じ性格の基礎的自治体として発足した。その後、昭和27(1952)年施行の「地方自治法」の改正により、東京都の内部団体という位置づけとなり、自治権は大きく制限された。また、区長公選制は廃止され、都知事の同意を得て区議会が区長を選任する議会選任制となった。
 昭和37(1962)年に東京都の人口が1000万人を突破し、世界初の「1000万都市」となると、生活環境の悪化や交通渋滞、水不足などの「東京プロブレム」と呼ばれる問題が発生した。これに対応するため、「地方自治法」の改正を行い、昭和40(1965)年に福祉事務所、老人福祉、社会福祉や保健衛生など、より区民に身近な業務が特別区に移管された。
 昭和47(1972)年10月に内閣総理大臣の諮問機関である地方制度調査会注釈1-1は、地方議会が多党化して区長候補者の一本化が難航するなど、長期にわたり区長が不在となる区が生じたことや、区政停滞の改善を求める区長公選制復活の市民運動が活発化したことを背景に、「区長公選制の採用」を答申し、東京都から特別区への事務の移譲などを措置すべき事項とした。これを踏まえ、区長公選制の復活、人事権の移譲など、特別区を市並みの自治体とする「地方自治法」の改正を行い、昭和50(1975)年に、保健所や区民に密着した多くの業務が特別区に移管された。これにより、特別区では地域の実態に即した対応が図れるようになった。
 また、昭和50(1975)年4月27日には葛飾区長選挙と葛飾区議会議員選挙が同時に行われた。24年ぶりに行われた区長選挙の投票率は60.72%であった。
 葛飾区は、市並みの権限を有することになったことから、長期的展望に立って区の将来像を描き、実現するための基本的な目標を示す基本構想の策定を開始した注釈1-2。昭和52(1977)年に「東京都葛飾区総合開発計画審議会」を設置し、1年2カ月にわたる審議を経て、昭和54(1979)年2月に答申を受けると、7月に「水と緑ゆたかな心ふれあう住みよいまち」を将来像とする「葛飾区基本構想」が区議会で議決された。
 昭和55(1980)年2月には、基本構想をより具体化するため、昭和60(1985)年度までの基本方針を定めた「葛飾区基本計画(第1次)」を策定した。そこでは、福祉施策などのソフトプランが初めて計画化された。また、保育園、児童館や公園といった生活関連施設や総合スポーツセンターをはじめとした教育・文化施設、道路や下水道の整備などが掲げられ、計画に基づき期間内に多くの施設が建設された。さらに、第2次の「葛飾区基本計画」に引き継がれた施設もその後整備され、現在も多くの区民が利用している注釈2

葛飾区長・葛飾区議会議員選挙の様子(昭和50〔1975〕年4月)

㊤開票結果を眺める区民 ㊦投票所の様子
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葛飾区地域産業振興会館(テクノプラザかつしか)(平成29〔2017〕年)

昭和63(1988)年10月開館
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葛飾区郷土と天文の博物館(平成29〔2017〕年)

平成3(1991)年7月開館
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葛飾区総合スポーツセンター体育館(平成26〔2014〕年)

昭和59(1984)年10月開館
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注釈1-1:昭和27(1952)年施行の「地方制度調査会設置法」の規定に基づき、内閣総理大臣の諮問に応じ、地方制度に関する重要事項を調査審議する総理府(現内閣府)の附属機関。
注釈1-2:昭和46(1971)年に「葛飾区総合開発計画」を策定したが、生活環境の整備を中心としたものであり、昭和50(1975)年当時は総合計画を策定していなかった。
注釈2:その他にも、この時期に建設された主な公共施設に、総合スポーツセンター陸上競技場(昭和60〔1985〕年7月開設)、男女平等推進センター(ウィメンズパル)(平成元〔1989〕10月開設)などがある。