葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第1節 戦後の葛飾

■葛飾と水⑥用水から親水公園へ :用水の終焉

 上下之割普通水利組合は、発足当初から江戸川から灌漑用水の自然取り入れを行っていたが、河床沈下のため東京都の補助で揚水場を設けて用水の供給を行ってきた。昭和22(1947)年に管理が江戸川区から葛飾区に移管されたが、昭和27(1952)年の「土地改良法」施行で、上下之割土地改良区の自主管理となり、その後、昭和39(1964)年4月に解散した。葛西用水普通水利組合も、戦後、管理が葛飾区に移され、昭和27(1952)年6月に西葛西第一部普通水利組合と合併後、「土地改良法」施行で東京葛西土地改良区となった。水路の管理は昭和40(1965)年に葛飾区に移され、葛西用水組合から脱会した。
 葛飾区は排水路となった用水管理を引き継いだが、投入物や悪臭問題などが起こり、昭和39(1964)年以降、蓋がけや防護柵の設置を進めてきた。下水道の整備とともに、これらの水路は親水公園として生まれ変わったものも多い。

水利組合の移り変わり
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明治時代の主要な用水路と河川
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亀有駅前橋南方の曳舟川(昭和63〔1988〕年)
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亀有駅前橋北方の曳舟川(昭和63〔1988〕年)
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