葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第3節 近世の葛飾

■葛飾と水③葛西用水とふたつの溜井 :亀有溜井の時代(前期葛西用水)

 亀有溜井があった17〜18世紀前半、葛西領の河川環境は、現在と大きく異なっていた。「正保国絵図」やその写である『新編武蔵風土記稿』の「正保年間改定図」に描かれるように、古利根川は、猿ヶ又で東に流れ、江戸川に合流していた。一方、西に分かれる現在の中川筋には、上流の猿ヶ又と埼玉郡大瀬(埼玉県八潮市)の間、下流の亀有と新宿の間が堤でしめ切られて亀有溜井が置かれた。享保10(1725)年の西葛西領川端村の村明細帳によると、当時の中川は、現在の3分の1程度の川幅の泥川であった。瓦曽根溜井から人工水路で南下した葛西用水は、綾瀬川の河道を使って亀有溜井に水流を供給した。
 亀有溜井を水源とする東葛西領の用水は下ノ割用水である。下之割は東葛西領南部の広域地名で江戸川区域に当たる。西葛西領では、亀有村から足立郡境を西に折れ、浅草川(隅田川)に合流する古隅田川を使う中井堀が近世前期からの用水であった。古隅田川はかつては武蔵・下総の国境であったが、近世初頭には細流となっていた。そこで、古隅田川から隅田川へ至る流れを遮断するために足立郡長右衛門新田と亀有村との間を堤で締め切り、同時に圦注釈1を設けて亀有溜井からの用水とした。
 享保年間(1716〜1735)に制作された「千住小金原御成絵図」には、亀有と新宿の間にあった亀有溜井(大溜・小溜)と亀有村付近を流れていた上水(本所上水)と用水(中井堀)が描かれている。

千住小金原御成絵図(千住から亀有溜井部分)

水戸道が渡る水路と橋が描かれており、西から、古綾瀬川:弥吉橋、綾瀬川:水戸橋で、亀有村に入ると上水(本所上水)、用水(中井堀)、一里塚を経て亀有溜井に至ることがわかる。船橋や松戸宿の描写から享保10~11(1925~1926)年の小金原鹿狩りの絵図である。
戻る時は右上の×をクリックしてください




注釈1:池の土手などに樋を埋め、水の出入りを調整する場所。