葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第3節 近世の葛飾

■葛飾と水② 船橋と曳舟 :嘉永二年の船橋

 船橋の架設は、松伏村(埼玉県北葛飾郡松伏町)名主石川家と、上花輪村(千葉県野田市)名主高梨家が担当した。船橋に必要な資材は、広く関東一円から集められた。石川家は多大な献納金で資材を調達した。高梨家は、ヒノキ・しゅろ・わら綱を献納し、上方から到着した虎綱を運搬した。
 船橋の構造は、大ひらた船注釈121艘をつないだ、長さ73間(約132m)・幅3間(約 5.5m)で、固定のため両岸に杉丸太で3本ずつ設置された男柱に結ばれた。さらに両岸の川上から7尺廻り(約 212㎝)の虎杭に、ヒノキを編んだ1尺廻り(約30㎝)の強固な虎綱で固定された。川上には流れてきた大木やゴミで船橋が破損しないように芥除綱が張られ、沈まないように数艘の船に結び付けられた。
 船橋の架橋は、嘉永元(1848)年11月26日から開始され、翌年3月11日に完成、15日まで一般に公開された。鹿狩りは3月18日に実施され、将軍一行の往復には延べ11時間を要した。狩りには約2万3500人余の旗本、勢子人足として6万2500人の農民が動員された。上小合村には勢子人足の幟、金町松戸関所番人であった山田家には虎綱の残欠が伝わっている。

松戸宿御船橋控杭(「小金野鹿狩之図」)
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船橋用虎綱残欠(金町・松戸関所関係文書〔葛飾区指定有形文化財〕)
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船橋未完成図

嘉永2(1849)年の金町松戸船橋の架設の構造がわかる図。なお、絵図には船が5艘しか描かれていないが、これは絵図特有の省略で、1艘分はひらた船約5艘分に相当する。
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注釈1:河川での荷物、旅客の輸送を行い、関東で多く使用された長さ15〜24mほどの底の平らな船。