葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■中世の葛飾の暮らしと交通 :中世の葛飾と他地域との交流

 ここまでみてきたように、中世の葛飾区域は河川を利用した水上交通と陸上交通の結節点であり、各地から人や様々なモノが集まってきていた。
 奥戸の鬼塚遺跡から見つかった土器の中に、南伊勢系土鍋と呼ばれる鎌倉時代の素焼きの土鍋がある。現在の三重県である南伊勢地方で生産された南伊勢系土鍋は、関東地方では鎌倉を除いて大量に見つかるものではないが、葛飾区域を含む東京湾沿岸部や東京湾と河川でつながる内陸部の一部で出土事例があり、海上交通と河川交通を利用した東海地方と関東地方との交流をものがたる。この土鍋がどのような目的で葛飾区域にもたらされたのかについては、商品、何らかの儀式に使用した非日常的な道具として持ち込まれたとする考え方があるが、詳細は不明である。いずれにしても、南伊勢系土鍋が葛飾区域で出土したということは、南伊勢地域と葛飾区域を含む中世の関東地方との人とモノの交流が行われていたことを意味する。葛飾の地には伊勢神宮の荘園であった葛西御厨があったことからも、伊勢からの人とモノの移動があった可能性が高い。
 葛西城の井戸の石組には、宝篋印塔の台座、五輪塔の一部や板碑が転用されており、井戸を廃棄する際に大量の瓦を詰め込んで埋めていることから、周辺に寺院があったと推測されている。低地にある葛西城の周辺には、宝篋印塔や五輪塔に使用できるような大きな石が採れないため、他の地方から水運を使って運び込まれたと考えられる。また、板碑の原材料となった石も武蔵国秩父で産出する緑泥片岩であり、これも東京湾に流れ込む入間川の河川交通を利用して葛飾の地にもたらされたとみられる。

鬼塚遺跡出土の南伊勢系土鍋
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葛西城出土の板碑

井戸が沈むのを防ぐために板碑を根石として利用していた。
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