葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■中世の葛飾の暮らしと交通 :中世の葛飾の治水と災害

 『東路のつと』の中で宗長は、葛西地域を市川と隅田川の間にあり、四方を堤に囲まれた地域としている。葛西地域の堤については、北条氏が配下の武将に葛西堤の築造を命じている史料があることから、戦国時代の葛西地域では堤が造られ、維持管理が行われていたことがわかる。葛西地域の上流部である武蔵国太田荘や下総国下河辺荘では、鎌倉時代から低地や荒地の開発にともなう堤防の築造や修理が行われており、葛西地域でも鎌倉時代から堤防を築き、低地の開発が行われていた可能性がある。『吾妻鏡』の文治5(1189)年2月30日条に、源頼朝が安房・上総・下総の地頭に対して荒野の開発を命じていることからも、鎌倉時代に葛西地域の開発が葛西氏主導で進められたと考えられる。
 このように、葛西地域では堤防が造られ河川管理が行われていた一方、たびたび水害に見舞われた。『吾妻鏡』によると、建仁元(1201)年8月に葛西地域の浜辺の家々が高潮によって壊れ多くの人が被害に遭っている。また、康永2(1343)年の「妙円神税等送状写 」には、葛西御厨内でこの年に旱魃が発生するとともに、洪水があって、伊勢神宮への納税や納品が滞っている様子が記されている。この史料には「度々の洪水」と書かれており、葛西御厨内がしばしば洪水に見舞われていたことがわかる。

『吾妻鏡』(建仁元〔1201〕年8月11日条)

下総国の葛西地域の海辺で潮が引き、多くの人家が漂没したとある。
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