葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■葛飾郡から葛西へ :葛西御厨の構造

 葛西御厨は、『神鳳鈔』に「葛西猿俣御厨」と記されていることから、初めは葛西地域の北部に位置する猿俣(葛飾区水元)周辺が御厨として開発され、その後、葛西地域の開発が進行するにしたがって御厨が拡大されたものと考えられる。また、「占部安光文書紛失状写」などによると、御厨の内部には33郷があって、それらの郷は上葛西と下葛西に分かれていた。葛飾区域にあたる地域は、猿俣や小鮎が属していた上葛西であったと考えられる。
 応永5(1398)年の「葛西御厨田数注文写」(『鏑矢伊勢宮方記』)に記載されている郷村の分布を見ると、38の郷村が存在したことが確認できる。また、この史料からは猿俣・小鮎・金町・飯塚の4郷が香取社の宝殿を造営するための年貢米を負担していたことがわかる。