葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■葛飾郡から葛西へ :葛西御厨の成立時期と葛西氏

 葛西御厨の成立時期については、いくつかの説があって正確なことはわかっていない。この地に葛西御厨が成立していたことを示す最も古い史料は、平安時代末期の永万元(1165)年の「占部安光文書紛失状写」(『鏑矢伊勢宮方記』)であるが、この史料はその信憑性が疑わしいことから、葛西御厨の成立を平安時代末期にまでさかのぼらせることはできない。
 葛西御厨の成立時期を考えるうえで重要なのは、葛西地域に進出した秩父平氏の流れを汲む武士の豊島清元と、その子の葛西清重をはじめとした葛西氏の動向である。
 豊島清元と葛西地域との関係が史料上確認できるのは、文永8(1271)年の「香取社造営所役 注文案」である。この史料には、清元が治承元(1177)年の香取社(香取神宮:千葉県香取市)遷宮注釈1にともない、正神殿雑掌注釈2を務めていたことが記されている。香取社遷宮の社殿造営は、「香取社造営次第」によると、これ以降は千葉氏と清元の子孫である葛西氏が交代で行った。下総国の千葉荘や相馬御厨に権益を持っていた千葉氏は、葛東地域に成立した夏見御厨などにも勢力を伸ばしていたとされる。つまり、治承元(1177)年以降は葛西地域に勢力を持つ葛西氏と、葛東地域に勢力を広げていた千葉氏によって、香取社遷宮の神殿造営が行われていたことになる。少なくとも、香取社遷宮の神殿造営に関する史料から、清元が下総国一宮注釈3である香取社の造営に関わることができる有力者としての地位を確立していたことがわかる。
 武蔵国豊島郡東部を本拠地とする豊島氏が下総国葛西地域に進出した背景には、秩父平氏の一族による東京低地の開発が進む中で、葛西地域の対岸に勢力を持っていた豊島氏が新たな所領を求め、隣接する葛西地域の開発を進めたと推測されるが、詳しい事情は明らかでない。しかし、治承元(1177)年の香取社遷宮にともなう正神殿の造営に、葛西地域の年貢を充てていることから、治承元(1177)年以前に豊島清元が葛西地域に進出し、権益を持っていたと考えられる。
 その後、鎌倉幕府が編さんした歴史書である『吾妻鏡』注釈1-2の治承4(1180)年9月3日条に葛西清重が登場することから、治承元(1177)年から治承4(1180)年までの間に、清重が父の豊島清元から葛西地域を継承し、葛西を名字として葛西氏を名乗り、豊島氏から分かれた。ここに、清重を初代として葛西氏が誕生する。なお、葛西氏の代々の当主は、初代の三郎清重が豊島清元の三男であったことから三郎と名乗っていた。
 『吾妻鏡』の寿永元(1182)年には、葛西清重が伊勢神宮へ献上する馬の調達を命じられており、この時までに葛西地域と伊勢神宮との間に何らかの関係があったとすると、葛西御厨の成立を源頼朝の挙兵の頃とし、清重が葛西地域の支配をより強力にするため、所領の葛西地域を伊勢神宮に寄進したとみることもできる。
 鎌倉時代初期の建久3(1192)年に、各国に所在する伊勢神宮の御厨の名を書きあげたとみられる「伊勢大神宮神領注文」に葛西御厨の名前は見えないが、建久4(1193)年の『神鳳鈔』注釈1-2には葛西御厨の名前が見られるので、この頃までに葛西御厨は成立していたと考えられる。

「香取社造営次第」(香取神宮文書)

保延 3(1137)年から元徳 2(1330)年までの造営の様子を記している。 保延 3(1137)年から元徳 2(1330)年までの造営の様子を記している。
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桓武平氏と豊島氏・葛西氏の関係を示す系図
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『神鳳鈔』(正徳3〔1713〕年写) 

下総国の箇所には、相馬御厨・夏見御厨・葛西猿俣御厨・遠山形御厨 ・萱田神保御厨の名が記されており、葛西猿俣御厨には「新御厨在之」との注が付されている。
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注釈1-1:神社の本殿を新たに造営し、新しい本殿に御神体を移すことで、香取社も20年に1度、遷宮に伴う社殿の造り替えと、神宝調度品類の新調を行うことになっていた。
注釈2:寺社造営の負担を負うものを「雑掌」と呼び、葛西氏は正神殿を担当した。
注釈3:国の中で一番格式の高い神社のこと。
注釈1-2:治承4(1180)年の源頼政の挙兵から文永3(1266)年まで書き継がれ、全52巻(第45巻が欠)のうち、15 巻までが頼朝を中心とした記述となっている。