葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■平安時代の下総と葛飾 :平将門の乱

 平良将は下総国豊田郡・猿嶋郡一帯の開発を進めていた。その子将門は都に出て摂関家の藤原忠平注釈1に仕えていた。帰国後は、良将の死で将門は下総へ帰った。婚姻関係や地盤を巡って、伯父の国香・良兼・良正と闘争を繰り返していた。それは平氏一族内の私闘であった。承平5(935)年、将門は国香を敗死させ、一族の争いは泥沼化していった。
 その頃、隣の武蔵国では権守興世王と介の源経基が、足立郡司武蔵武芝と対立していた。争いの発端は慣例を無視した興世王と経基の足立郡への介入とされる。将門は両者の仲介役となり、興世王と武芝は和解した。一方、隣国の常陸では、その地の有力者藤原玄明が国守藤原維幾に反抗していた。こうした地方豪族の反抗の背景には、受領の搾取に対する不満があった。彼ら地域の豪族たちは、皇室・摂関家などの中央の有力者である院宮王臣家と結んで、私費で開発・経営する私営田の拡大を進めた。将門の場合は、藤原忠平に臣従し、忠平の権威を背景に岩井営所などを拠点に開発・経営を進めていた。院王臣家の力を頼りに豪族たちは納税を拒否する行為に出ることもあった。これに対し、国家は受領に税である官物を納めさせることで財政の安定を図ろうとした。
 天慶2(939)年、藤原玄明は朝廷の許可なく使用できない備蓄物である不動穀を納めた倉を襲い、追討対象とされ将門を頼ってきた。将門は当初、玄明と維幾の仲介を試みたものの失敗に終わった。維幾は玄明の引き渡しを将門に要求してきたが、将門はこれを拒み、ついに常陸国へ進撃し常陸国府を占領した。さらに、下野国府・上野国府も制圧した。このことが国家への反逆と見なされた。将門は上野国府で新皇と称し、弟たちや興世王らを坂東諸国の国司に任命した。朝廷は将門追討のため8人の押領使を任じた。天慶3(940)年、兵を帰郷させていた将門の本拠を、押領使常陸掾 平貞盛(国香の子)・下野掾藤原秀郷が焼き討ちし、将門は敗死する。将門の死で将門一党はあっけなく崩壊した。
 将門の乱が国家的反逆に至ったのは、院宮王臣家と結び付いた地方豪族の大規模な私営田経営と税の拒絶があり、受領との対立が背景にあった。武蔵や常陸における受領と豪族の対立はそうした一面をみせている。
 将門の乱後、坂東では治安の悪化にともない、国守は群盗追捕の権限を持った押領使を兼務するようになった。また、坂東諸国は税収が不安定で統治が困難な亡弊国とされ、税負担が軽減された。国守は任期の4年のうち、税を2年分納めればとよいということになった。また、乱を鎮圧した藤原秀郷は従四位下下野守 という当時の地方豪族としては破格の待遇を受けている。平貞盛は従五位上左馬助の地位を得ている。将門の乱を通報した源経基も従五位下となった。これらの人々の子孫が後に武門の家を形成していった。

平将門の乱関係図
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将門の首を運ぶ隊列(「俵藤太絵巻」)

藤原秀郷の隊列。秀郷は俵藤太と呼ばれた。
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平将門像

国王神社(茨城県坂東市)にある寄木造平将門木像。
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注釈1:10世紀前半の貴族。藤原氏の氏長者(藤原氏の長)となり、摂政・関白の地位に就いた。