葛飾区史

第1章 葛飾の風土と自然


第2節 東京低地の成り立ち

■縄文海進以降の東京低地 :微地形から見る柴又

 発掘調査で確認された柴又地区の地形を見ると、遺跡がある周辺よりわずかに高い土地である微高地は東西に長く、旧海岸線の名残である砂州の可能性がある。京成金町線から東側の柴又帝釈天遺跡(柴又7丁目)付近は、微高地が南北にも長く及んでおり、砂州の南側に河川が運んだ土砂が堆積して自然堤防が形成されたものである。一方、京成金町線の西側は、南北の幅が狭い微高地で、砂州の様相が東側のものよりもよく残っている。
 古代の下総国葛飾郡大嶋郷は、現在の葛飾区や江戸川区付近に位置したとされる。中世の海岸線から考えると、当時は現在より海との距離が近かった。微高地を取り囲むように旧河道が確認でき、こうした河川を使って入り江や利根川の旧河道であった小松川境川・一之江境川から海に出ることや、海から現在の江戸川・旧中川・古隅田川にさかのぼる舟運が自在に行われていたであろう。なお、小松川境川・一之江境川では、明治時代中期にも舟運が確認できる。

地形から見る柴又
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