葛飾区史

第1章 葛飾の風土と自然


第2節 東京低地の成り立ち

■縄文海進以降の東京低地 :縄文海進と関東平野

 約1万 2000 年前に最終氷期が終わると温暖化して氷河が後退し、世界的に海面が上昇し始めた。約1万年前の関東の海岸線は、現在とほぼ同じ位置であったが、約6000年前の縄文時代前期には海水面が上昇し、内陸へ入り込む縄文海進が起こった。最終氷期に形成された段丘にも海水が入り込んで、入口が狭く奥行きの深い内湾や溺れ谷注釈1が形成された。
 この時期の関東平野には東西に2つの大きな内海があった。東部は古鬼怒湾(奥鬼怒湾)で、低地一帯は「香取海」と呼ばれた。西部は奥東京湾で、現在の荒川低地・中川低地・東京低地にあたる。水深が浅く、流れもあまり強くないため、三角州が発達し、奥東京湾は次第に小さくなっていった。
 約6000年前の海岸線の位置は、台地の縁が波の作用で削られてできた波食台の位置でわかる。柴又5〜7丁目の柴又河川敷遺跡では、地表から約2m下に波食台があり、かつてこの付近まで張り出していた下総台地が、波の作用で削られたことを示している。

関東平野の旧海岸線
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注釈1:海水面の上昇や地盤沈下により海が谷間に浸入したもの。リアス式海岸やフィヨルドはその一種。